日本に広がる理念なき「参加」

1995年の阪神淡路大震災の経験から、行政だけでなく、市民の力も借りて、まちづくりをしていこう!という機運が高まっています。市民活動団体(NPO)も多く立ち上がり、地域で「市民協働」、「住民参加」、「市民参加」の取り組みをする自治体も増えてきました。

そもそも市民にとっても自分たちのまちであるわけですから、市民の力を「借りる」というのはおかしい気もするのですが、より多くの市民が自分のまちのを自分ごとに考えて、まちに参加していくのはいいことですよね。

日本の「参加」は本質がズレている

しかし、実際の現場を見てみると日本で展開される「市民参加」にどうも違和感があります。そして、この感覚は、僕は実際に「市民参加」が先進的とされるヨーロッパの取り組みを見た経験がそうさせるのだと思います。どんなに日本の中で先進的とされる「市民参加」の話を聞いたり見たりしても、ヨーロッパで見てきたものとは何か違う気がするのです。

もちろん、国が違うわけですから、その国で展開される「市民参加」も違っていいと思います。しかし、この感覚の違いはそんなレベルの話ではなく、もっと本質的な理念の部分なのです。

日本での参加に違和感を持つ理由はいくつかあります。要するには、本質的じゃないと思う理由です。

「参加」がパフォーマンス化する

まず、「参加」がパフォーマンス化することです。

国内の「市民参加」の取り組みを見ていると、「うちのまちでは、こんなに市民の意見を聞いています」「こんなにたくさんの市民が参加しています」とアピールしていることが多いです。

アピールすること自体は別に良いのですが、アピールすることが目的になっていることがほとんどです。自分のまちのパフォーマンスのために「市民参加」を促すまちは、本気で市民の声を聞こうなんて思っていないことが多いです。そんなことしても、いつか市民も気付いて、持続的なまちになるはずがありません。

お客様として市民を位置付ける

冒頭でもお話ししたように、「まち」「地域」「社会」を考えたときに、その主体者は、そこに住むすべての市民です。しかし、日本では何かあれば「役所のせいだ」「役所にやってもらおう」と、主体者というよりも、お客様市民になっていることが多いです。

行政の方と話すと、お客様ではなく「主体者」としてまちに関わって欲しいと言っていることが多いのですが、実際はお客様のように扱ってしまっていることが多い気がします。

例えば、何らかの計画をつくる市民代表による会議はその典型例です。僕も大学生ながら、行政の会議にはいくつか参加させていただきました。このような会議に参加してくる人は、普段からそれぞれの組織で地域のために仕事や活動をされている方でがほとんどです。そんな人たちが集まっていても、みんな言いたいことだけ言って行政任せという感じになってしまいます。

なんでこんな風になってしまうかというと、出席している市民だけでなく、会議のそもそもの仕組みや、行政側の姿勢にも問題があります。皆さんの意見を聞かせてくださいというだけで、一緒にやっていきましょうという姿勢ではないから、お客様になります。

市民を下請け化する

もうひとつは、市民を下請け化してしまうことです。

NPO団体が行政と縦の関係になってしまうというのはよく聞く話です。全国的に自治体のお金まわりが厳しくなっている中、市民にやってもらえば、安く済むという考えが生むものです。

「市民にやってもらえば」の言葉のように、行政が民間(市民)に仕事をおろすという感覚でいるから、上下関係が起こります。これが進むと、下で触れる民主主義とは異なり、行政に都合の良い民間だけしか、参画できないような仕組みになります。

本物の「参加」とは

最近、建築家のヒューブナー氏が書かれ、千葉大学の木下勇先生が訳された『こどもたちが学校をつくる―ドイツ発・未来の学校』を読みました。タイトルだけ聞くと、ピンと来ないかもしれませんが、この本の中に「参加」の本質が隠れているように感じました。

この本には、建築家であるヒューブナー氏がゼロから子どもたちや地域住民の参画によって学校をつくるプロセスが書かれています。どんな学校をつくるか?という理念から、それを計画・実現(建築)するすべてのプロセスに子どもが参画していきます。

すべてのプロセスを共有する

本書のあとがきで、木下先生が書かれているように、本当にすべてのプロセスに子どもたちが参加しているのに驚きました。

原書を見て驚いたのは、子どもが学校建築にここまで参画しているという事実である。私は長年、こども参画のまちづくりを考え、実践してきたが、構想づくりや計画段階が主で、施工段階では絵タイルや植物を植えたりといった部分的な関わりでしかないのが現実と考えていた。

(木下勇「翻訳にあたってのあとがき」から一部抜粋)

詳しいことは本を読んでいただければと思いますが、このように想像を超えて子どもたちに参加してもらうことができたのは、彼らの「力」を信じていたことにあると思います。これは子どもだけでなく、「市民参加」も一緒です。大事なのは本気で一緒にやろうと思い、すべてのプロセスを共有することです。

行政がある程度枠組みをつくってから、一部分だけ市民に意見を聞いてみようとするものなど、市民参加の取り組みのほとんどは部分的な参加になっています。計画・実行までのすべてのプロセスを一緒にやる。そうでなくても一番最初の計画段階で、同じテーブルについたメンバーで役割分担を話し合うのが大事です。

参加の理念に民主主義を

もうひとつは、参加の理念に民主主義があることです。

上に書いたような「すべてのプロセスを共有すること」の理念的な背景には、必ず民主主義があると思っています。これがヨーロッパで肌で感じきた市民参加と、日本の市民参加の圧倒的な違いです。

そして、紹介したこの本の中では「民主主義」という文言は出てきていません。しかし、読んでいれば、何が大切にされて学校づくりが行われたのかがよくわかります。この感覚は、日本の市民参加で感じる「いいな」と思う感覚とは、違う感覚です。

何を理念に「参加」を促すか

何を「参加」の理念にするかが大事です。そして、その「参加」がその理念を体現した場になっていることも大事です。理念なき「参加」は、何も生み出せないのです。