大学生であることの責任とは。



僕は若者(中高生世代)支援に関わるYECという学生団体で活動をしている。

大学生でこういうことをしていると、大人たちに「若いのにえらいね~」とか「これからの君に期待してるよ」とか、ありがたい言葉をたくさんいただく。

正直なところ、1年くらい前はそんな風に言われるとその気になって、調子に乗っていた。活動を続けていくほどに、新聞に取り上げてもらう回数も増えていったし、人前で話をさせてもらう機会もたくさんいただいた。

そうすると、ふとしたときに自分の原点がゆがんでいることに気付く。いつの間にか、目立つこととか、偉い大人と話すこととか、そんなことをカッコいいと思い始める。自分の軸がどんどん本質的でないものになっていく。原点からずれていく。

話は変わるが、先日、中学の同級生の女の子と久しぶりに会って話をしていた。彼女は高校を卒業して、働きながら通信で専門学校に通っている。SNSを通して彼女の近況はなんとなく知っていたけど、会って話すのは6年ぶりだった。

「Twitterとか見てると、すごい楽しそうだね。自分のやりたいこと自由にやれてるって感じ。新聞とかも見たよ!ほんとすごいよね。」

そんな言葉を彼女から言われた。

彼女は、本当は高校卒業後に専門学校に通う予定だったのが、家庭の金銭的な事情で就職せざる負えなかったという。入学金も自分で全部出すしかなかったから、高校時代は夜の仕事をしていて、本当は就職先にばれていたら内定が取り消しになるから怖かったと、笑いながら話していた。

彼女にとっては何気ない雑談なんだろうけど、そんな話を聞いて、ずっと心の中がもやもやしていた。

こんなことを自分で言うのは変なのかもしれないけど、自分はものすごく恵まれている。ということに気づいた。大学に行きたいといったら学費も親が出してくれたし、今こうして好き勝手に活動していても親には何も言われない。好きなようにやればいいと言ってくれる。

何が言いたいかというと、今新聞やテレビをにぎわせている学生のほとんどは大学生だったりする。もちろん大学生の中には、自分で学費を払っている人とか、奨学金を借りて大学に行っている人もたくさんいる。ただ、社会全体として恵まれている家庭(所得の高い家庭)のほうが大学への進学率が高いのは、事実である。

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この図は、文科省の調査(平成21年度文部科学省白書)で高校卒業後の進路と、両親の年収の関係を示したもの。見てもらえばわかるように、明らかに両親の年収と子どもの進路が関係していることが分かる。

少し別の角度からではあるが、放送大学副学長の宮本みちこ先生も、日本の若者について『若者が〈社会的弱者〉に転落する』という本の中でいち早く指摘している。

多くの若者は自分の好きなことが自由にできくなっている。

これは紛れもない事実だろう。僕はこのことを考えるときに、自分が申し訳なくて申し訳なくて仕方なくなる。

何が若者支援だ。何が若者の社会参加だ。自分は今まで何をやってこれたのか。何もできていないじゃないか。大人たちに褒められて、気が大きくなって、調子に乗って。

本当は僕なんてすごくない。力強く生きている彼女のほうがすごいと思うし、僕はとっても尊敬している。

最近は意識高い系とか言って、活動的な学生が揶揄されているが、実はそんな学生がこれからの社会を動かしていったりするのかもしれない。大学卒というのは、社会の中でも比較的高いポジションにつくというのは一般的で、そんな人たちが自分たちが恵まれているということに無自覚なままでは社会の構造は変化していかないだろう。

なんとなく進学する大学生が増えている中、大学に行きたくても行けない高校生もたくさんいる。そんなことを考えると、もしかすると、「大学生」という資格はとても大きな責任を負っているのかもしれない。

ここでいう責任は、自分が恵まれた環境にあるという自覚と、だからこそ自分が後悔のないくらい好きな事、やりたいことを追求していくことだと僕は考えている。

社会の構造が大きく変わらない限り、この現状は改善されていかないだろう。ただ、ひとりひとりの大学生に言えるのは、この事実を知った瞬間、適当に大学生活を送ることが許されないのだと思っている。

別に何かNPO的な活動に取り組めとか、ボランティアをやれとかそういうことではなくて、無自覚であることが罪な気がしている。

色々脱線しながら話を進めてきたが、深い自戒の念を込めて、自分の心にずっと忘れずに置いておきたい。

(画像引用:wikipedia)