まちづくりの実験

上野に象を連れてきた、戦後民主主義の「子ども議会」

地方の人口減少の課題を受けて、子ども・若者のまちづくり参加に積極的に取り組む自治体が増えてきています。

そのひとつの実践として、様々な自治体で取り組まれているのが「子ども議会(会議)・若者議会(会議)」です。

全国の6割以上の自治体が子ども議会・若者議会を実施

2018年にNPO法人わかもののまちと早稲田大学卯月盛夫研究室が共同で実施した「子ども議会・若者議会 全国自治体一斉調査」によれば、全国の6割以上の自治体が「子ども議会」もしくは「若者議会」に「取り組んでいる」「取り組んでいた」と回答しています。

また、事業の開始年について尋ねた項目では、下図の通り、2015年以降に取り組みをはじめた事業が多く、2016年には80以上の事業が新しく始められています(単年度事業を含む)。

「子ども議会・若者議会」事業の開始年

こうした近年の動向を見ていると、「子ども議会・若者議会」は最近になって取り組み始められたもののように感じます。

しかし、歴史を振り返れば、我が国の「子ども議会」の歴史は、戦後にまで遡っています

戦後民主主義教育として始められた「子ども議会」

戦後すぐに新しい民主主義教育の学習活動として、子どもが身近な問題を自らの力で解決するための「子ども議会」が設置されていました。

東京の台東区には、昭和23年から25年までの間、小学5,6年生で構成される子ども議会とともに、中学生で構成される少年議会も存在していました。

戦争中の日本は、動物園の猛獣類に脱走の恐れがあることから、軍の命令でライオンや虎などの動物は処分されていました。こうした背景から、戦後の上野動物園(台東区)にはライオンも象もおらず、子どもたちとってはつまらない動物園でした。

そこで、昭和24年5月1日に開会された台東区子ども議会は「上野動物園に象がほしい。名古屋から本物の象を借りてこよう。」と決議しました。

当時、戦後の日本に残っていた象は2頭で、どちらも名古屋の東山動物園にいました。「2頭もいるのだから、1頭は上野動物園で借りても良いだろう」と子ども議会は考えたのです。

この決議は下記のような新聞投書が発端となってます。

 「この“象借入れ問題”の発端というのは、昭和二十四年三月六日の『東京日日・毎日小学生新聞』に小学校三年生の近藤晃一君という子の手紙が掲載されていることから始まっています。“ぼくのいもうとは、ぞうをしりません。なんとかして買ってください”と十円の為替を入れた手紙を上野動物園の古賀園長に送ったことが報道されたからです」

(「動物園に象がいなかった日」厚田尚子『婦人公論』1981年)

この議決をもとに、台東区子ども議会の代表者2名が名古屋まで向かい、直接交渉することになり、昭和24年5月5日に開催された名古屋市子ども議会で象がほしいと訴えをしました。

名古屋市子ども議会のメンバーとの活発な意見交換が行われ、「同情はするが、東京の友達だけに貸すわけにいかない。だからといって、名古屋だけで独占するのもよくない。」と意見はまとまりませんでした。

この後、代表者2名は、実際に象がいる東山動物園を訪れるほか、当時の名古屋市長の塚本市長に陳情をしました。しかし、もともと2頭は一緒に生活をしているため、1頭だけを引き離すというのは困難で、象も高齢でそもそもの輸送自体も難しい現状がありました。

そこで、塚本市長は代案として、名古屋と全国をつなぐ象列車を運行し、名古屋に象を見に来てはどうかと提案し、同年6月18日から、国鉄名古屋鉄道管理局の協力による象列車が運行をスタートしました。

上野に象を運動

象列車を実現させた台東区子ども議会でしたが、子どもたちは上野動物園で象が見たいのであって、象列車という代案では満足できずにいました。

そこで、子どもたちは引き続き「上野に象を」の運動を続けました。

名古屋から戻った代表2人は、宿谷衆議院議員の紹介で、松平参議院議長あてに請願書を出すことになりました。請願書には、「マッカーサー元帥を動かして、象をはじめ珍しい動物を輸入してほしい」ことが書いてありました。

なお、これが子どもたちによる国内初の請願でした。当時の様子を台東区子ども議会の副議長だった厚田尚子は以下のように述べています。

 「“国会初めての子供の請願”ということで、宿谷議員は法律的に受理して有効かどうか、当惑されたと聞きます。しかし、松平参議院議長は、たとえ子供にしろ、基本的人権は大人となんら変わらない、請願はきちんと受け取るべきだと、正式に受理されたわけです」

(前出同、厚田尚子)

 この請願は、1949年5月11日の参議院運営委員会の議題として取り上げられました。

参事(寺光忠君) 昨日宿谷さんの紹介で象等の輸入に関する請願というのが出て参りました。これは御承知の台東区の子供議会で、議長その他代表者が二名名古屋まで参りまして、象を送つて呉れというようなことを申し出ましたけれども、ゾウにもならなかつたので(笑声)、議会の力で何とか手に入れるようにして貰いたいということを言つて來ておるのであります。

まあ子供のことでもありますので、締切になりましたけれども、この一件だけ受理して、本会期末に審議を終るようにして頂きたい、こういう熱烈な希望がございまして、運営委員会でお認め願えれば、その通り取計いたいと思います。

(参議院運営委員会 議事録, 1949年)

この時期になると「上野に象を」運動は、台東区だけでなく、都内の小・中学生を広く巻き込み、都庁にプラカードを立てて押しかけることや、都知事への陳情など、積極的な運動を繰り返していました。

象のインディラがやってくる

この運動が広くメディアなどに取り上げられていたこともあり、社会の大きな注目を浴びていました。

ここでひとつの転機が起こります。

この運動の存在を知った、インドの貿易商の二ヨギ氏が、インドから象を贈ることができないかと考えたのです。そこでニヨギ氏は、当時のインドのネール首相宛に東京の子どもたちからのお願いの手紙を送ることを提案しました。

早速、都内の小・中学生が手紙をたくさん書き始め、最終的には1500点もの手紙が集まりました。集められた手紙は、二ヨギ氏が中継ぎ役となってネール首相に手渡されました。

そして、日本の子どもたちからの手紙を見たネール首相は、胸を打たれ、「そんなに象がほしいのだったら」と日本に象を送ることを決定しました。

その後、昭和24年10月1日に象の受領式が上野動物園で行われ、象は「インディラ」と名付けられました。象の贈呈式には、当時の森首相も出席しました。

戦後の子ども議会が現代に繋ぐもの

戦後の台東区子ども議会の事例は、非常に示唆的かつ刺激的なものです。

子どもたちの「象が見たい」の純粋なつぶやきから、国会やインドのネール首相をも動かし、現実のものとしました。

子ども・若者のまちづくり参加は、海外の事例(とくにヨーロッパ)が先進事例として取り上げられ、それらを参考に日本のなかで実践する地域もありますが、日本の歴史の積み重ねのなかにも位置づいています

残念ながら、当時の子ども議会の様子を記録している文献は少なく、なぜこうした実践が可能であったのか、どれくらいの自治体が取り組んでいたのかは不明です。

しかし、戦後にこうして取り組まれていた子ども・若者のまちづくり参加を出発に、現在の実践を見つめることは大きな意味をもたらすと考えます。

そして、なぜこうした実践が続かなかったのかの検証も必要でしょう。


※この文章は、筆者の修士論文「子ども・若者のまちづくり参加に関する研究−「子ども議会・若者議会」全国自治体一斉調査を通じて−」の一部を元にしています。

※また、象のインディラについての記述のほとんどは、台東区史(2002)を参考文献にしています。

ABOUT ME
土肥 潤也
「コミュニティファシリテーター」という肩書きで、すべての人が主役になれるコミュニティづくりに取り組んでいます。コミュニティラボCO-℃(コード)代表、NPO法人わかもののまち 代表理事、日本シティズンシップ教育フォーラム運営委員、内閣府「子供・若者育成支援のための有識者会議」構成員