つぶやき

学びのゆとりをデザインする

今日は、今年から構成員のひとりとして参画している「内閣府子供・若者育成支援推進のための有識者会議」の第2回でした。

府省間の横連携や総合調整を行う内閣府の会議ということもあって、テーマが多岐に渡っています。

今日の会議の府省ヒアリングでも、文科省、総務省、厚労省、警察庁など、次から次へと担当者が出てきて、取り組んでいる政策の実施状況などについて報告がありました。

学ばないといけないこと多すぎる

今日の会議の具体的な議論は公開される議事録を読んでいただくとして、個人的な感想をちょっと。

各府省からの報告を聞いていて、純粋に子ども・若者が学ばないといけないこと多すぎるなぁと印象を持ちました。

消費者教育、安全教育、健康教育、権利教育、情報教育、主権者教育、性教育、グローバル教育、探求学習、地域学習、読書学習…

今日の会議だけに限っても、たくさんの「◯◯教育」「◯◯学習」が出てきて、子ども・若者たちは一体いくつ教育を受ければ、良いのだろうと感じます。

もちろんひとつひとつの教育や学習は大事だと思います。

でも、こんなに盛りだくさんでは、子ども・若者が本当に学びたいことが学べる時間が確保できないだろうし、何よりひとつひとつが中途半端になってしまうのではないでしょうか。

意図的学習こそ本当の学習

新学習指導要領に移行し、学校内での「主体的・対話的で深い学び」が重視されるようになってきました。

いわゆる「アクティブ・ラーニング」が求められるようになってきたわけですが、「◯◯教育」「◯◯学習」が盛りだくさんの学校に、もうひとつ「◯◯学習」が増えた感じがして、正直、生徒の学びのゆとりを奪っているような感じもします。

イヴァン・イリッチの『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』には、こんな一節があります。

ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである。

たとえば彼らは外国にいる祖父母の家に行って生活をしたとか、外国旅行をしたとか、あるいは外国人と恋に陥ったとかしてその言語を学んでいるのである。

(中略)

ところが幅広く書を読み、しかも楽しく読む人々の大部分は、単純に自分たちはそうすることを学校で学習したと信じている。しかし本当にそうかと問われれば、彼らはたやすくこの幻想を捨て去ることができるのである。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』

すべての学習を学校外で行うことへの危うさは感じますが、振り返ってみれば、自分が主体的に学んだ経験のほとんどは、学校内での教授ではなく、意図的学習というのには納得です。

最近、とある高校生からこんな相談を受けました。

学校の授業の一環で地域イベントを企画しなくちゃいけなくて。

でも、部活もあるし、やりたいこともあるし、正直めんどくさい。

もちろん先生も悪気があってこうした授業をしているのではなく、新学習指導要領に則って、模索をしているんじゃないかなと感じます。

でも、これでは生徒の時間をどんどん削るだけで、本当のアクティブラーニング?と疑問をもってしまいます。むしろパッシブ(受動的)な学びを増やしているだけではないでしょうか。

学びのゆとりをつくる

僕個人の考えでは、本当の主体的な学び(アクティブ・ラーニング)を目指すのであれば、生徒の学びのゆとりをつくることが重要だと考えています。

ゆとりがあれば、自分と向き合う時間ができるし、意図的な学びが起こる機会も増える。

今の生徒たちにはその時間が少なすぎる、自分と向き合う時間が少なすぎる。

高校生でいえば、とりあえず受験・就職がゴールで、そのための学習になっていて、全く主体的な学びになっていない。

先生から教授される学びを脱出(脱学校化)して、意図的な学習がたくさん起こる環境をつくる。

これが本当に必要なことなんじゃないかなぁと思うわけです。

そのためには、学校教育だけでなく、社会教育をより強化していくことが大事だと考えていますし、あまりにも学校に色々な教育・学習を押し付けているようにも感じます。

ただ、学校を縮小すれば良いということではなく、生徒が多様な学びを選択できる社会になったらいいなと思います。

そんな雑多な感想でした。

ABOUT ME
土肥 潤也
「コミュニティファシリテーター」という肩書きで、すべての人が主役になれるコミュニティづくりに取り組んでいます。コミュニティラボCO-℃(コード)代表、NPO法人わかもののまち 代表理事、日本シティズンシップ教育フォーラム運営委員、内閣府「子供・若者育成支援のための有識者会議」構成員